09«1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»11

Calender

New Entries

レクブログ法度

誠に生きる 第一章

誠に生きる 第二章

2011箱館の旅 (途中)

妄想ドリームチーム

Category

Monthly Archive

All Entries

QR code

Search

Powered by FC2blog

RSS Field

誠に生きる〈第三章〉  

副長を崇拝しHEDWIGを愛し山本耕史さんを応援する日記

故郷の中の戊辰戦争~戊辰役殉難者墓苑(1)

護国神社は海沿いにあり、松林に囲まれた広大な敷地を擁する神社だ。
神社の裏はすぐに海岸で、日本海が広がっている。

gokoku.png


入り口の鳥居をくぐると延々と参道が続き、
本殿まではかなり時間がかかる・・・


そんな参道の途中に戊辰役殉難者墓苑の入口があった。

戊辰役殉難者墓苑

ご3

ご2

ご555

入り口の解説文によると
新潟市内の戦いは1868年7月25日から5日間だったらしい。

この時の長岡藩は激戦の最中で、長岡城を奇兵隊から奪還しその後落城するという時期にあたる。
副長は会津で怪我の療養を終えて復帰したころかなぁ・・・

当時の新潟港は開港したばかりで、イタリアやプロシアの武器商人からも大量に武器や兵器が運びこまれて東北の諸藩が買い付けていたと言われている。
つまり新潟港は奥羽越列藩同盟にとっては武器補給の生命線だったのだ。
地理的にも新潟は庄内と会津につながる中継地点でもあったから、武器の補給という意味でも援軍という意味でも重要地点だった。
だから、逆に新政府軍にとっては、一刻も早く落としたい地であっただろう。

明治に新政府軍の戦死者の墓碑が建立され、招魂社となり、それが昭和20年になってここに移されたとのことだ。
最初は新政府軍の戦死者の墓苑だったのだ。

そして、昭和60年に旧新潟大学の跡地から旧幕府軍の遺骨が92体発見され、ここに埋葬された後に、昭和63年に2度目の戊辰の年にちなんで旧幕府軍の慰霊碑が建てられたという経緯だそうだ。

「ここは東西両軍の区別なく、いづれも国に殉じた尊い御霊として祭祀する霊苑であります。異郷の地で果てた戦士よ、安らかにお眠りください」

と解説文の最後はこう書かれている。

墓苑に入ると、奥には三つの大きな慰霊碑が奥に建っていた。

ご5

左が十津川藩の慰霊碑
ご7

真中は薩摩藩
ご8

右にあるのが昭和63年に建立された旧幕府軍の慰霊碑だった

ご15


そしてその周りを新政府軍の戦死者の墓碑がぐるりと囲んでいる。

ご9

ご10




スポンサーサイト

カテゴリ: ・新選組

tb: 0 |  cm: 0
go page top

この記事に対するコメント

go page top

コメントの投稿

Secret

go page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://yamamotohijikata.blog48.fc2.com/tb.php/3261-deff489d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
go page top