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誠に生きる〈第三章〉  

副長を崇拝しHEDWIGを愛し山本耕史さんを応援する日記

故郷の中の戊辰戦争~殉節之碑(2)

この新潟大神宮にある殉節之碑は明治23年に建立されたものだ。

各地で転戦し命を落とした会津藩士は多い。
新潟でも多くの会津藩士が戦い、散っていった。
二十三回忌にあたる年に建立された碑は「殉節之碑」と名づけられ、鎮魂を願う碑であるという。

碑の脇に立てられた解説板を読んだら、この碑にこめられた思いに胸が熱くなり涙が出た。
大7

解説の全文を紹介します。<
(漢字は原文そのままです)

「慶応4年(1868年)一月の鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、越後の地が最大の激戦地となりました。薩摩・長州を主力とする西軍と、会津・米沢・荘内・長岡等の東軍との間で、越後各地で約四ヶ月にわたる激しい戦闘が行われました。
この戦いで、越後に所領・預かり地を沢山有していた会津藩は、多くの戦死者を出しました。現在の新潟県内における藩士の戦死者は判明しているだけでも二百四十二名、更に会津藩に加わった幕軍兵士や町兵・郷兵の戦死者を含めると、正確な数字は不明の状況です。
戦争が終わっても勝者の敗者に対する仕打ちは苛酷で、戦死者の埋葬さえも許しませんでした。
「殉節之碑」は、当時の生き残り越後在住会津藩士が、家宝の刀剣を売るなど苦しい生活の中から資金を出し合い、地元越後の支援も得て、ようやく二十三回忌の年に、越後の各地で戦死した先人の霊を慰めるために建立した悲願の鎮魂碑であります。
新潟大神宮の境内に建立したのも、伊勢神宮の御分社に戦死者の霊を鎮魂し、いわれのない朝敵の汚名を注ぎたいという藩士たちの切なる願いだったからだと思われます。その後百年近くも碑の存在さえ忘れられていましたが、平成二年七月に碑建立者の子孫が中心となり百年祭を実施し、その後祀裔会を組織して毎年慰霊祭を行っております。
碑建立百二十年に当たり、風化等で痛んだ碑の基礎部分などを修理し、神宮本殿近くに移設致しました。」


解説を読んであらためてこの碑を見つめてみた。
伊勢神宮といえば皇室と縁が深い
その分社に祀ることで朝敵の汚名を注ごうとしたのか・・・

容保さまは「殉節」という言葉に思いのすべてを託されたような気がする。

高幡不動にある局長・副長の碑である殉節両雄之碑の篆額もまた容保さまの手によるものだ。
「殉節」の二文字には抱えきれないほど大きな思いが込められている

・・・そんなことを思ったのだった。



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カテゴリ: ・新選組

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