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誠に生きる〈第三章〉  

副長を崇拝しHEDWIGを愛し山本耕史さんを応援する日記

箱館の旅~極楽寺

亀田八幡宮から歩いて数分のところのある極楽寺

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このお寺は、もともとは刑場で処刑された罪人を弔うために建てた念仏堂が前身とされているお寺だ。
また、災難や非業の死をを遂げた人たちの供養塚もあり、地元の人々は「念仏寺」とも「無縁寺」とも呼んでいたそうだ。

極楽寺と呼ばれるのは昭和になってからとのこと。

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この真ん中に建っているのが「諸国戦死供養の常夜灯」
箱館戦争の両軍の戦死者を弔ったものとされている。
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極楽寺というお寺は、副長埋葬説のあるお寺として知られている!!


副長がいったい今、箱館のどこに眠っているのか…

五稜郭の中、伊庭八郎さんのお隣なのか
碧血碑なのか
大円寺の二本松なのか
また別のところなのか

諸説あって、いまだにわからない。

いろんな書籍や資料を読むと、どれもなるほどなぁっと思ってしまう。

五稜郭に運ばれたとしても
五稜郭に運ばれた副長のご遺体をそのまま埋葬したのか
または
五稜郭はあくまでも仮の埋葬場所で、埋葬したが掘り返して五稜郭から運び出したのか
どこかに隠したのか
何年か経って、また別の場所に移したのか




ここからは拙者の妄想が入った内容ですが…(^_^;)

側にいて副長を弔った者たちは決して確実な情報を語らず、あえて残さなかったような気がするのだ。
いろいろな形で箱館戦争を書き遺した隊士たちも、なんだか本当に確実な場所をあえて書かなかった気がする。
そして、一旦埋葬してもまた別の場所へ移したのではとも思えてくるのだ。
五稜郭にそのまま埋葬していたら、すぐに見つかってしまうから…

なぜこんなにも副長の埋葬場所をトップシークレットにする必要があったのか!?

それは、やっぱり、新選組副長土方歳三だったから!!

新政府軍にとって、つまりは薩長軍にとって、
新選組副長土方歳三への怨念は強かっただろう!
何が何でも捜し出して、埋まっているなら掘り返してでも晒したかったはずだ!

ぜってぇそんなことはさせねぇ!!
いいか、薩長のやつらにゃ、副長は指一本触れさせちゃならねぇ!!
俺たちの副長は俺たちが守る!!

あ、なんだか口調が組!の島田っぽいですが

つまり

みんな、土方歳三という男に惚れてんだ!
あの人はカッコイイんだ!
カッコイイ土方歳三を永遠にカッコイイままにしておくんだ、ぜってぇ!!!


極楽寺の場所は、今はかなり埋め立てられて通りが広がっているが、当時はすぐ近くがもう海だった。
暗闇にまぎれて密かに海辺からこの寺に運ぶこともできたかもしれないぞ~

極楽寺に行ったら、そんなことも考えてしまった(^_^;)



今、土方資料館にはある1通の手紙が展示されている。

「土方歳三死後の処置状況
 (室蘭警察署警官加藤福太郎氏の平忠次郎氏への手紙)」

土方家と縁のある平家の息子さん(副長の幼なじみ)が、当時、多摩出身の室蘭警察署の警官に頼んで副長の埋葬地について聞き取り調査をしてもらった、その結果報告の手紙だ。

その手紙の中では、柳川熊吉さんたちが一生懸命知べた結果が書いてある。
「函館ヨリ僅カ離レタル七飯村ト云フ処ノ・閻魔堂ニテ 土葬ノ上 宝物ノ如ク大切ニ致シヲル事ガ判然 種種ニ談判ノ末 再ビ火葬ニ改メ 即チ明治十二年ニ至リ 漸ク碧血碑ノ中ニ収メタリト云フ」
とある。

宝物のように大切にってところが、泣けるなぁ…

で、この「閻魔堂ニテ」の閻魔堂はどこにもないし
「七飯」という地名のある亀田郡七飯町は、海岸寄りではなく、かなり内陸部にあるし

それに、誰がいつどうやってどこから副長を運んで埋葬していたのか
それはこの手紙には書いていなから、詳細はわからないし、
内容の信憑性もどの程度なのかわからない


ただ、なんか妄想してしまうのだ~

極楽寺には閻魔大王像が安置されていて、閻魔像がある寺は函館では極楽寺だけだったという。
冒頭に書いたように、地元の人はお寺を通称で呼んでいることの方が多い。
閻魔像があるお寺だから、当時は閻魔堂って呼んでいたとしたら…
そして、
「函館ヨリ僅カ離レタル七飯村ト云フ処ノ・閻魔堂ニテ 」

「七重浜にほど近い閻魔像のある寺」
とイコールだとしたら、極楽寺ってことになるぜ!!

・・・なんて考えていたら、いろいろ妄想が浮かんできてしまった。

七重浜って、当時はどこまでをそう呼んでいたんだろうか…

今回、箱館の旅をするまでは、七重浜ってかなり遠いところだと思っていた。
でも、実際に七重浜に行ってみて、かなり箱館に近いと実感した。
その距離感は想像していたものとは全然違っていたのだ。

真夜中に島田が密かに台場を抜けだして、暗闇の中、命がけで薩長に見つからねえように小舟でたどりつき、副長を極楽寺に弔った。そしてまた小舟で闇にまぎれて、弁天台場へ戻っていった。
陸路がダメなら海路で行くぜ~

…なんてことまで考えてしまうのだぁ~

あははh
どうしても島田にやってほしい願望があるんでつい

死ぬまで副長の戒名を肌身離さず持っていた島田だから…
彼が、「永遠にカッコイイ副長」を守り抜いた!


あくまでも拙者の妄想です!!

実際のところは、弁天台場は五稜郭と分断され孤立していたわけで、台場外と情報を共有するのは難しいし、第一、弁天台場の籠城はかなりひっ迫した状況だったらしいから、こんなことは無理だろうけど…

でも、ミッションインポッシブルをやり遂げてしまう男、島田!!
…なんて、妄想は尽きない



副長の埋葬場所はどこなんだろう。


やはり五稜郭説が有力かなぁ…

もしかすると、誰にも知られていないまったく別の場所なのかもしれない


副長の眠る場所は、いまだに謎のまま

・・・

・・・・・・

・・・・・

でも、これだけは言える

副長がみんなから慕われ、尊敬され、愛されていたこと
みんなが副長を大切に思い、その名誉を守ろうとしていたこと

埋葬場所に諸説があること自体が、その証しのような気がしてならないのだ…

カッコイイ副長を永遠にカッコイイままに…と。

函館のなかにある箱館そのものが、土方歳三の墓石なのかもしれない…

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カテゴリ: ・新選組

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この記事に対するコメント

副長埋葬地で新説と言うほどでもないですが、七飯村説は結構面白いですよ。

七重村は確かに現地から内陸なのですが、当時七重村と函館は久根別川を通して水運がありました。七飯町の町史にも載ってます。
そこに住んでいた住人が八王子千人同心の開拓者で、副長とはほぼ同郷で非常に徳川への忠誠心とガッツのある人達です。調べる程に興味深い人達ですが、それ故に函館戦争時は生活と幕府への義理で非常に辛い立場に置かれたとか。
薩長政府の目から隠しながら、副長の遺体を宝物のように大事にしていた七飯村と言う条件にはピタリと当てはまる人達ですね。
薩長政府に立てついて旧幕府側で闘った平山金十郎と言う人物が、明治七年にはもう帰ってきて七重村の峠下で塾を開いていもいる様子ですし、副長の遺体をひっそりと守り続けても不思議じゃない土地柄です。

当時の七飯村は閻魔堂が有った記録が無いと言う事で、真っ先に候補から外れる地域ではありますが、状況的には非常に興味深い土地です。
幕府の為に最後まで戦った土方さんを、同郷の七重村の八王子同心の人達が宝物のように守っていたと言うのは救いのある説です。
今後の研究で、土方さんと七重八王子千人同心の交流や、七飯村の閻魔堂の新情報など出るととても面白いと思います。
URL | 赤生 #qIytC2Ok
2018/04/20 18:13 * 編集 *

ありがとうございます

赤生 殿

お返事が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。

拙宅の箱館レポを読んでいただきありがとうございます。
そして、興味深い副長埋葬地説のコメント、
本当にありがとうございます。
読んで納得、そしてウルウルしました。
そうなんですか
「住人が八王子千人同心の開拓者で、副長とはほぼ同郷で非常に徳川への忠誠心とガッツのある人達」
だったとは!!!!!!
なにか運命のようなものを感じますね。
水運があったのなら、可能性もありますなぁ
何より
「幕府の為に最後まで戦った土方さんを、同郷の七重村の八王子同心の人達が宝物のように守っていたと言うのは救いのある説です」
という赤生殿のお言葉に胸が熱くなりました。
赤生殿の副長に対する愛情の深さがつたわってきました。

副長の埋葬地については、新情報がいつか出るかもしれませんよね。
レポはわざと未完のままにしてあるので、また函館に行きたいと思っています。
コメントありがとうございました。
URL | レクイエム 0511 #ofxKis3k
2018/04/24 21:50 * 編集 *
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