箱館の旅~千代ヶ岡 3
2011/11/11 Fri. 09:26:57 edit
今回の箱館行きでは
「旅というのは、そこに何かが建っていなくても、たとえ説明版1枚でも、いや説明版も何もなくても、その空間だけでたくさんのことを感じることができるものだなぁ」
ということを痛感した。
たいせつなのは、そこに自分が立ってみて目に入る風景。
そこに至るまでの道や山の見え方、海や空との距離感
立派な建物や記念碑が建っていなくても、目に映らないものを見ることができるのだ。
千代ヶ岡陣屋に関しては、今回訪ねてみるまでは、副長最期の出陣地であり中島三郎助父子戦死の地だということだけだった。
その他もろもろの豆知識も、本で読んだりサイトで見たりしただけだったが、今回その場に立ってみて、ここがいかに重要な場所であったか、いかにたくさんのドラマが生まれていたかを実感できた。
それは、五稜郭から一本木関門跡までを実際に歩いてみたという経験が大きかったと思う。
その距離感や、函館山の大きさ、五稜郭から函館の街へ行く上での千代ヶ岡の位置が、実感できたのだ。
頭の中で描いていても、なかなかつかめないものだった。
千代ヶ岡の位置を実感することで、その当時の人の流れや緊迫した様子、追いつめられていく箱館政府の状況が鮮明になった気がする。
歩いてみなければわからなかった…
千代ヶ岡陣屋は、戦いの場でもあったが、降伏交渉の段階でも重要な人の行き来があった場所だった。
たとえば、新政府軍が必死の説得に入っている5月15日
弁天台場と五稜郭しか残されていない状況で、その間にあるのが千代ヶ岡陣屋だった。
弁天台場に説得に来たのが薩摩藩の永山友右衛門
友右衛門さんは弁天台場の隊長である相馬主計に呼びかけて、その後2人で千代ヶ岡付近へ向かっているのだ。
(この薩摩の永山友右衛門は、碧血碑の記事で書いた田島圭蔵さんと同じ人物)
“その翌十五日、友右衛門暁を侵して砲台の柵外に来たり、投刺す。主殿面を出せば、友右衛門曰く「榎本・松平の二君の答ふる所、戦ひを止むる能はざるが如し。請ふ、これを再思せんことを。」と。
その意甚だ懇ろなり。主殿、友右衛門をして釜二郎と千代ヶ岡の橋の上に逢はしむ。”
(『函館戦記』より)
とある。
「千代ヶ岡の橋の上に逢はしむ」とは、拙宅のここで書いた亀田川にかかるこの橋の辺りじゃないか~
まさにここなのか
千代ヶ岡からすぐだったもんなぁ…

ここで榎本総裁が相馬と…
ああ、もう、さっっと通り過ぎちゃってたなぁ
この橋の上でもっと佇んでいればよかった
ここで説得されたが、総裁は
“釜二郎曰く「官軍の厚意に感ぜざるにあらず。然れども寧ろ死すとも降ることは能はざるなり”
(『函館戦記』より)
とつっぱねているのだ。
激しいやり取りもあり、その後、総裁は五稜郭へ戻り、相馬は友右衛門と台場まで戻っていく。
一本木関門はすでに新政府軍の手に堕ちているが、弁天台場のリーダーだった相馬は一本木関門を通って千代ヶ岡まで来て、話し合いが終わるとまた一本木関門を通してもらって籠城先の弁天台場へ帰って行ったのだ。
実際に歩いたことにより、五稜郭、千代ヶ岡、一本木、さらには弁天台場の位置関係が実感できるから、この一文だけを読んでも、ものすごくリアルに感じることができるのだ!!
ここを守り、ここで戦い、ここで最期を迎え、そしてここで降伏へ向けての交渉が始まる
千代ヶ岡陣屋という場所は、まさに、箱館政府の命運そのままの場所なのだった。
「旅というのは、そこに何かが建っていなくても、たとえ説明版1枚でも、いや説明版も何もなくても、その空間だけでたくさんのことを感じることができるものだなぁ」
ということを痛感した。
たいせつなのは、そこに自分が立ってみて目に入る風景。
そこに至るまでの道や山の見え方、海や空との距離感
立派な建物や記念碑が建っていなくても、目に映らないものを見ることができるのだ。
千代ヶ岡陣屋に関しては、今回訪ねてみるまでは、副長最期の出陣地であり中島三郎助父子戦死の地だということだけだった。
その他もろもろの豆知識も、本で読んだりサイトで見たりしただけだったが、今回その場に立ってみて、ここがいかに重要な場所であったか、いかにたくさんのドラマが生まれていたかを実感できた。
それは、五稜郭から一本木関門跡までを実際に歩いてみたという経験が大きかったと思う。
その距離感や、函館山の大きさ、五稜郭から函館の街へ行く上での千代ヶ岡の位置が、実感できたのだ。
頭の中で描いていても、なかなかつかめないものだった。
千代ヶ岡の位置を実感することで、その当時の人の流れや緊迫した様子、追いつめられていく箱館政府の状況が鮮明になった気がする。
歩いてみなければわからなかった…
千代ヶ岡陣屋は、戦いの場でもあったが、降伏交渉の段階でも重要な人の行き来があった場所だった。
たとえば、新政府軍が必死の説得に入っている5月15日
弁天台場と五稜郭しか残されていない状況で、その間にあるのが千代ヶ岡陣屋だった。
弁天台場に説得に来たのが薩摩藩の永山友右衛門
友右衛門さんは弁天台場の隊長である相馬主計に呼びかけて、その後2人で千代ヶ岡付近へ向かっているのだ。
(この薩摩の永山友右衛門は、碧血碑の記事で書いた田島圭蔵さんと同じ人物)
“その翌十五日、友右衛門暁を侵して砲台の柵外に来たり、投刺す。主殿面を出せば、友右衛門曰く「榎本・松平の二君の答ふる所、戦ひを止むる能はざるが如し。請ふ、これを再思せんことを。」と。
その意甚だ懇ろなり。主殿、友右衛門をして釜二郎と千代ヶ岡の橋の上に逢はしむ。”
(『函館戦記』より)
とある。
「千代ヶ岡の橋の上に逢はしむ」とは、拙宅のここで書いた亀田川にかかるこの橋の辺りじゃないか~
まさにここなのか

千代ヶ岡からすぐだったもんなぁ…

ここで榎本総裁が相馬と…
ああ、もう、さっっと通り過ぎちゃってたなぁ

この橋の上でもっと佇んでいればよかった

ここで説得されたが、総裁は
“釜二郎曰く「官軍の厚意に感ぜざるにあらず。然れども寧ろ死すとも降ることは能はざるなり”
(『函館戦記』より)
とつっぱねているのだ。
激しいやり取りもあり、その後、総裁は五稜郭へ戻り、相馬は友右衛門と台場まで戻っていく。
一本木関門はすでに新政府軍の手に堕ちているが、弁天台場のリーダーだった相馬は一本木関門を通って千代ヶ岡まで来て、話し合いが終わるとまた一本木関門を通してもらって籠城先の弁天台場へ帰って行ったのだ。
実際に歩いたことにより、五稜郭、千代ヶ岡、一本木、さらには弁天台場の位置関係が実感できるから、この一文だけを読んでも、ものすごくリアルに感じることができるのだ!!
ここを守り、ここで戦い、ここで最期を迎え、そしてここで降伏へ向けての交渉が始まる
千代ヶ岡陣屋という場所は、まさに、箱館政府の命運そのままの場所なのだった。
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カテゴリ: ・新選組
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