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2011.11.11 (Fri)

箱館の旅~千代ヶ岡 2

千代ヶ岡を最後まで死守していたのが中島三郎助さん

降伏勧告を拒否して、この千代ヶ岡陣屋で親子共々壮絶な戦死を遂げた…

その碑が建っているのが中島町37
千代ヶ岡陣屋跡から大きな交差点に出てすぐ斜め向かいのグリーンベルトにあった。
千代が岡

三郎助隊長を中心に、中島隊と称された仲間たちの結束は固く、最後の最後まで戦いぬいたという。

中島家に伝わっている文書で中島隊の隊士が記録したとされている
『明治年 日記 千代ヶ岡砲兵方』
の中に新政府軍の総攻撃前夜の一文があり
「明十一日賊軍海陸ニ襲来函館江迫り候由外国人より通達有ノ候ニ付元一同覚悟之儀ニも候へとも猶守衛心を用ひ候様奉行家より之沙汰鈴木始三郎より申来候」とある。
「一同」という言葉にその結束力の強さを感じる一文だ。

彼らをしのんで中島町と命名された地に建つ最後の地碑
地元の方々の熱い思いが胸に沁みた…
dscn0134.jpg


俳人でもあり木鶏という俳号だった三郎助さん
明治2年旧3月14日に開かれたという別盃の宴では
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
「われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹」
の2句を詠んだとされている。
特に
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
が三郎助さんの辞世の句として有名だが…
一説によると、千代ヶ岡陥落の後に見つかった中島三郎助と思われる遺体には、辞世の句を書き付けた短冊が衣服に縫い付けてあったが、それは血をに染まって読めなかったとも言われている


俳号といえば、榎本総裁の俳号は梁川
総裁が副長をしのんで書いた書にも「入室清風 梁川」とある。
函館市の梁川町は総裁の俳号からとったものなのかな…

俳句といったら、やっぱ豊玉師匠~~~
明治元年の暮れに開かれた孤山堂無外さん主催の句会ではみんなで一緒に句を詠んだんだろうなぁ…




大野右仲さんの『函館戦記』では、5月11日の戦いを終えて千代ヶ岡陣屋に集まっているそれぞれの様子が生々しく描かれている
副長が戦死し、一本木関門も破られ
みな傷つき疲労は限界…

“諸隊皆千代岡に集まる”で始まっている一節だ。

“見方隊はその長二関源次の屍を舁ぎて来たり。星恂太郎は剣を杖にして嘆きて曰く「吾が額兵隊は甚惰にして・面目諸君に見ゆる無し。」と。
伊藤善次口吃しつつ曰く、「吾れ今日労れたり。吾が杜陵隊も、また多く死傷す。」”


読んでいてつらいなぁ…

そしてさらに

“彰義隊長渋沢誠一郎、蓬髪鷹視して意色甚だ悪しく、新遊撃隊長柏崎才一は黙して答へず。”と続く

「蓬髪鷹視」…
煤だらけで顔色は悪く、乱れてくしゃくくしゃになった髪で眼光だけがギラギラしている感じだろうか…

こんな風に皆がぐったりしている中で

“独り千代岡総督中嶋三郎助のみ六十余にして鬢髪半ば白く、巾を以て傷をツツむも、意気従容として曰く、「吾れの死するはこの岡のみ。」と。”

包帯には血がにじんでいたんじゃないだろうか…
「意気従容として」とはすごいなぁ…
三郎助さんの覚悟のほどが伝わってくるし、こんな状況下でもひとり落ち着きはらっている彼の侍としての強さと大きさがわかる。

中島さんは常々「千代ヶ岡陣屋が死に場所である」と言っていたそうだが、その覚悟は始めから終りまで決して揺るがず、ずっど変わらなかった。



最後の砦ともいうべき千代ヶ岡陣屋を死守し、
最後の最後まで信念を貫き通した侍たちのことを思い、
近いうちに必ず浦賀を訪ねたい思いながら、この最後に地に来て手を合わせたのだった。


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