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誠に生きる 第一章

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2011箱館の旅 (途中)

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誠に生きる〈第三章〉  

副長を崇拝しHEDWIGを愛し山本耕史さんを応援する日記

箱館の旅~千代ヶ岡 3

今回の箱館行きでは
「旅というのは、そこに何かが建っていなくても、たとえ説明版1枚でも、いや説明版も何もなくても、その空間だけでたくさんのことを感じることができるものだなぁ」
ということを痛感した。

たいせつなのは、そこに自分が立ってみて目に入る風景。
そこに至るまでの道や山の見え方、海や空との距離感

立派な建物や記念碑が建っていなくても、目に映らないものを見ることができるのだ。


千代ヶ岡陣屋に関しては、今回訪ねてみるまでは、副長最期の出陣地であり中島三郎助父子戦死の地だということだけだった。
その他もろもろの豆知識も、本で読んだりサイトで見たりしただけだったが、今回その場に立ってみて、ここがいかに重要な場所であったか、いかにたくさんのドラマが生まれていたかを実感できた。
それは、五稜郭から一本木関門跡までを実際に歩いてみたという経験が大きかったと思う。

その距離感や、函館山の大きさ、五稜郭から函館の街へ行く上での千代ヶ岡の位置が、実感できたのだ。
頭の中で描いていても、なかなかつかめないものだった。

千代ヶ岡の位置を実感することで、その当時の人の流れや緊迫した様子、追いつめられていく箱館政府の状況が鮮明になった気がする。

歩いてみなければわからなかった…


千代ヶ岡陣屋は、戦いの場でもあったが、降伏交渉の段階でも重要な人の行き来があった場所だった。

たとえば、新政府軍が必死の説得に入っている5月15日
弁天台場と五稜郭しか残されていない状況で、その間にあるのが千代ヶ岡陣屋だった。

弁天台場に説得に来たのが薩摩藩の永山友右衛門
友右衛門さんは弁天台場の隊長である相馬主計に呼びかけて、その後2人で千代ヶ岡付近へ向かっているのだ。
(この薩摩の永山友右衛門は碧血碑の記事で書いた田島圭蔵さんと同じ人物)

“その翌十五日、友右衛門暁を侵して砲台の柵外に来たり、投刺す。主殿面を出せば、友右衛門曰く「榎本・松平の二君の答ふる所、戦ひを止むる能はざるが如し。請ふ、これを再思せんことを。」と。
その意甚だ懇ろなり。主殿、友右衛門をして釜二郎と千代ヶ岡の橋の上に逢はしむ。”

(『函館戦記』より)
とある。

「千代ヶ岡の橋の上に逢はしむ」とは拙宅のここで書いた亀田川にかかるこの橋の辺りじゃないか~
まさにここなのか
千代ヶ岡からすぐだったもんなぁ…

橋


ここで榎本総裁が相馬と…
ああ、もう、さっっと通り過ぎちゃってたなぁ
この橋の上でもっと佇んでいればよかった

ここで説得されたが、総裁は
“釜二郎曰く「官軍の厚意に感ぜざるにあらず。然れども寧ろ死すとも降ることは能はざるなり”
(『函館戦記』より)
とつっぱねているのだ。
激しいやり取りもあり、その後、総裁は五稜郭へ戻り、相馬は友右衛門と台場まで戻っていく。

一本木関門はすでに新政府軍の手に堕ちているが、弁天台場のリーダーだった相馬は一本木関門を通って千代ヶ岡まで来て、話し合いが終わるとまた一本木関門を通してもらって籠城先の弁天台場へ帰って行ったのだ。

実際に歩いたことにより、五稜郭、千代ヶ岡、一本木、さらには弁天台場の位置関係が実感できるから、この一文だけを読んでも、ものすごくリアルに感じることができるのだ!!


ここを守り、ここで戦い、ここで最期を迎え、そしてここで降伏へ向けての交渉が始まる

千代ヶ岡陣屋という場所は、まさに、箱館政府の命運そのままの場所なのだった。






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箱館の旅~千代ヶ岡 2

千代ヶ岡を最後まで死守していたのが中島三郎助さん

降伏勧告を拒否して、この千代ヶ岡陣屋で親子共々壮絶な戦死を遂げた…

その碑が建っているのが中島町37
千代ヶ岡陣屋跡から大きな交差点に出てすぐ斜め向かいのグリーンベルトにあった。
千代が岡

三郎助隊長を中心に、中島隊と称された仲間たちの結束は固く、最後の最後まで戦いぬいたという。

中島家に伝わっている文書で中島隊の隊士が記録したとされている
『明治年 日記 千代ヶ岡砲兵方』
の中に新政府軍の総攻撃前夜の一文があり
「明十一日賊軍海陸ニ襲来函館江迫り候由外国人より通達有ノ候ニ付元一同覚悟之儀ニも候へとも猶守衛心を用ひ候様奉行家より之沙汰鈴木始三郎より申来候」とある。
「一同」という言葉にその結束力の強さを感じる一文だ。

彼らをしのんで中島町と命名された地に建つ最後の地碑
地元の方々の熱い思いが胸に沁みた…
dscn0134.jpg


俳人でもあり木鶏という俳号だった三郎助さん
明治2年旧3月14日に開かれたという別盃の宴では
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
「われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹」
の2句を詠んだとされている。
特に
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
が三郎助さんの辞世の句として有名だが…
一説によると、千代ヶ岡陥落の後に見つかった中島三郎助と思われる遺体には、辞世の句を書き付けた短冊が衣服に縫い付けてあったが、それは血をに染まって読めなかったとも言われている


俳号といえば、榎本総裁の俳号は梁川
総裁が副長をしのんで書いた書にも「入室清風 梁川」とある。
函館市の梁川町は総裁の俳号からとったものなのかな…

俳句といったら、やっぱ豊玉師匠~~~
明治元年の暮れに開かれた孤山堂無外さん主催の句会ではみんなで一緒に句を詠んだんだろうなぁ…




大野右仲さんの『函館戦記』では、5月11日の戦いを終えて千代ヶ岡陣屋に集まっているそれぞれの様子が生々しく描かれている
副長が戦死し、一本木関門も破られ
みな傷つき疲労は限界…

“諸隊皆千代岡に集まる”で始まっている一節だ。

“見方隊はその長二関源次の屍を舁ぎて来たり。星恂太郎は剣を杖にして嘆きて曰く「吾が額兵隊は甚惰にして・面目諸君に見ゆる無し。」と。
伊藤善次口吃しつつ曰く、「吾れ今日労れたり。吾が杜陵隊も、また多く死傷す。」”


読んでいてつらいなぁ…

そしてさらに

“彰義隊長渋沢誠一郎、蓬髪鷹視して意色甚だ悪しく、新遊撃隊長柏崎才一は黙して答へず。”と続く

「蓬髪鷹視」…
煤だらけで顔色は悪く、乱れてくしゃくくしゃになった髪で眼光だけがギラギラしている感じだろうか…

こんな風に皆がぐったりしている中で

“独り千代岡総督中嶋三郎助のみ六十余にして鬢髪半ば白く、巾を以て傷をツツむも、意気従容として曰く、「吾れの死するはこの岡のみ。」と。”

包帯には血がにじんでいたんじゃないだろうか…
「意気従容として」とはすごいなぁ…
三郎助さんの覚悟のほどが伝わってくるし、こんな状況下でもひとり落ち着きはらっている彼の侍としての強さと大きさがわかる。

中島さんは常々「千代ヶ岡陣屋が死に場所である」と言っていたそうだが、その覚悟は始めから終りまで決して揺るがず、ずっど変わらなかった。



最後の砦ともいうべき千代ヶ岡陣屋を死守し、
最後の最後まで信念を貫き通した侍たちのことを思い、
近いうちに必ず浦賀を訪ねたい思いながら、この最後に地に来て手を合わせたのだった。


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箱館の旅~千代ヶ岡 1

千代ヶ岡陣屋というと、
「5月11日に副長がここから出陣した」
「中島三郎助父子が降伏を拒否して討ち死にした」
ということぐらいしか知らなかった。

そして中島三郎助さんのことも、歴史ヒストリアで観るまではほとんど名前しか知らなかった(^_^;)

そんな浅い知識しか持たずに、今回千代ヶ岡に行ったのだが、
実際に五稜郭から一本木関門跡まで歩いたことで、まずその地理的な視点での把握ができた!

この千代ヶ岡陣屋がいかに旧幕府軍にとって重要だったか
ここが最後の砦だったことがよくわかったのだ!!

五稜郭からまっすぐ一本木関門へ向かう道があり、千代ヶ岡はそのちょうど中間に位置していた。
(水色が五稜郭から一本木関門へ向かう旧道)
ちよがおか地図



5月11日の新政府軍総攻撃により、
弁天台場を残し、一本木関門までの箱館の町を縦断され、
七重浜を取られ、
そしてついに一本木関門が落され・・・
孤立した弁天台場を除けば、旧幕軍側には、もはや千代ヶ岡から五稜郭までしか残っていなかった。
千代ヶ岡陣屋は、五稜郭を守る最終防衛ラインのようなものだ。
だから、千代ヶ岡陣屋を落されては、もう、五稜郭を守る術がないのだ。

逆に、新政府軍の側から見ると、五稜郭へ攻める場合、進軍する際にそこに唯一立ちふさがるのがこの千代ヶ岡陣屋なのだ。
つまりは、この千代ヶ岡さえ落せば、もう五稜郭は半分手に入ったも同然なのだった。

それが千代ヶ岡陣屋
まさに最後の砦だなぁ…


千代台公園の脇にプレートがあった
千代が岡


千代が岡


この辺は上り坂になっていた。
やはり台場があったがゆえの地形かな…
東西約130m、南北約150mの土塁を築き陣屋を置いたとのこと
このあたり一帯がそうだったらしい。
(このすぐ先の右に中島小学校がある)
千代が岡

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箱館の旅~七重浜

七重浜って、なんとなく遠いイメージがあったのだが、
なんとJR函館駅からJR江差線で2つ目で、10分で行けてしまったのだ

七重浜だあああ~
dscn0094.jpg

dscn0096.jpg


駅前の大通りをひたすら歩くと、ものの10分もかからずに浜に出た!!

これが七重浜だああああああ
dscn0097.jpg

かもめよ~
ここが七重浜なんだね~
dscn0098.jpg



まず最初に組!モードで

これだ!!!
dscn0101.jpg

「それじゃあ誠の字が見えねぇだろ!
もっと大きく掲げろ!」(by 副長)

dscn0104.jpg


で、やっぱこれだ!!!!

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dscn0114.jpg

組!!のオープニングシーンは七重浜
蛇にパニクる島田のせいで(笑)、官軍に見つかってしまうが
ここで登場なのだ~、劇激撃カッコイイ副長が


実際には副長は七重浜の夜襲攻撃の場にはいなかったけど、新選組に七重浜夜襲の命令を出したのは副長だとされている。

二股口から五稜郭に帰った副長は5月1日に弁天台場へ行き、新選組に七重浜夜襲を命じている。
その後、七重浜へは数回の夜襲攻撃がかけられている。

島田魁日記に
“夜三更我新選組二小隊先陣トス、彰義二小隊中軍ニ備陸軍一小隊ヲ後陣トス、暗ニ乗シテ官軍ノ陣ヲ襲ヲ、”
から続く夜襲の描写がある。
「三更」とは子の刻のことだから、だいたい夜の11~1時あたりらしい。
5月1日の夜中から2日の未明にかけて夜襲のあと、2日の夜から3日の未明、さらに3日の夜、6日にも夜襲があったそうだ。(2日の夜襲からは大鳥さんが現場で指揮をとっていた)


また、七重浜は箱館戦争の海戦でも激しい攻防があったところだ。
箱館海戦を書いた文献の中に「七重浜」の文字があちこちに出てくる。

5月入ってから11日までの七重浜から函館港にかけての激しい海の攻防も、今宮古湾から帰ってきて読むと、さらに熱く胸にくるなぁ…
“独り甲鉄艦のみ湾の中央に来り、隠然として動かず”
(『函館戦記』より)
なんてのを読むと、「甲鉄コノヤロ~」なんて熱くなってしまう
(^_^;)
「隠然として」って意味を調べてみたら、
「表面ではわからないが、陰で強い力を持っているさま」
とあった。
無言の圧力ちゅうか、その存在だけで威圧している様子が浮かんできてしまうから…



七重浜から富川方向を眺める
富川といえば新政府軍黒田の本陣…

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七重浜から見た函館山
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この大きさは当時とまったく変わらないはずだ…
七重浜から箱館を見ていた彼らの目には、こんな風に箱館山が見えていたのか…
同じ山を今見ているのだなぁ(感涙)






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