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誠に生きる 第一章

誠に生きる 第二章

2011箱館の旅 (途中)

妄想ドリームチーム

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誠に生きる〈第三章〉  

副長を崇拝しHEDWIGを愛し山本耕史さんを応援する日記

箱館の旅~松前の旅 5

松前城を一周し、門の跡を行ったり来たり…
馬坂を登ったり降りたり
門を何度もくぐったり

何かわけわからんけど、ウロウロしてしまった(^_^;)

そして、いよいよ松前城の裏手にあたる寺町通りへ

寺町通りはひっそりしていて、木陰が多くて薄暗かった

なのに、やたらとテンションを上げて歩くヤツがひとり…

副長が陸軍隊などを率いてお城の裏手の寺町に回りこんで、梯子をかけて石垣を登り城内に突入したと言われている、その寺町通りに来たのだ

『島田魁日記』
「総督陸軍隊守衛新選組ヲ率テ城裏ニ廻リ梯子ヲ以テ石檣ヲ登リ城中ニ潜ミ入」
とある。

正面の門からの敵に釘づけだった松前軍は、背後から不意をつかれて狼狽し敗走…
挟み撃ちになったわけだもんなぁ…

松前

松前

当時はこの通りの半分が掘りだったらしい
松前

副長がどこから梯子をかけて城内に入ったのか、ピンポイントはわからないので、とにかく寺町をまんべんなく歩いて網羅してみた!
dscn0471-3.jpg

松前
松前
dscn0470-3.jpg


寺町通りを歩き倒し、松前の旅もそろそろ終わりに近づいた…



松前城を出て馬坂を下り、通りに出てすぐに松前奉行所跡があった!
(現在は松前町役場)

松前

松前

旧幕府軍が占領した直後に描かれた松前城下図には、松前城内と法華寺と、そしてここ松前奉行所に日の丸がひるがえった図があるので、きっとここも屯所のような形で使っていたに違いない!



そして、その奉行所跡のすぐ近くには、人見勝太郎さんが宿陣していたという藩医桜井小膳宅があったらしい。
(済衆館という医学校が併設されたお宅だったとのこと)
今は何も残っていないが…。
松前に5日間ほど滞在した副長も、きっとここに泊っていたんじゃないかなぁ…
この辺りだろうか!?
ここら辺が副長宿泊の跡だ~と信じて写真を撮った
(松前奉行所跡を左手に北に向かって歩いてすぐあたりを撮ってみた)
松前


バスの時間まで少しあったので、またも松前城下へ戻り、馬坂を登ってみた!
どんだけ好きなんだ、馬坂が~(あはは)
いや、馬坂を登らんとどこへも行けんのよ~

搦め手二の門をくぐり、またまた寺町も歩き
そして馬坂を下って、ついに松前城を後にした…

なんだか自分が松前にいるのが夢のようだったなぁ

やはりその場に立つと、その距離感が実感できたり、風景を共有できたような気がして感動また感動だった

帰りも、行きと全く同じ道を逆ルートで路線バスと電車を乗り継いで函館へ戻った。

帰りの電車の中で見た函館山の風景…

いろいろな思いが浮かんでは消え、また浮かんできた。

松前城の寺町通りを歩いていた時、松前藩主の菩提寺である法幢寺へも行き、境内の松前家御霊屋(歴代藩主の位牌)と裏手の松前家墓所お墓にもお参りをさせていただいたのだ。
(お寺の写真も撮ったのだが、なぜかものすごくブレていて載せられなかった)
旧幕府軍に松前を追われた松前藩主一行は日本海へ脱出して津軽へ向かったが、冬の荒波の航海は難行であり、船中で5歳の姫はなくなり、藩主自身も弘前で亡くなったそうだ。
そして、翌年の新政府軍の攻撃に参加した松前藩士たちは、無念の死をとげた藩主を思い、軍服の下に喪服をきていたという話も伝わっている…

そんなことを思っていたら、ふとある住職の言葉を思い出した。

以前に河合継之助の史跡をめぐって長岡や小千谷市を訪ねた時のこと。
長岡戦争の中でも有名な(河合継之助と岩村精一郎会見の間がある)慈眼寺で、ご住職のお話を伺ったのだが、ご住職は旧幕府軍を弔い、仏壇に新政府軍も弔っていた。
そして、
「国を思って命がけで戦った人たちは、敵も味方もなく、みな忠義の侍だと思います。」
とおっしゃっていた。


そんなことを思いながら、函館山の中の箱館山を見ていたら、わけもなく涙が出てきたのだった

松前
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カテゴリ: ・新選組

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箱館の旅~松前の旅 4

松前城へ入った!!

松前

復元された天守閣
松前





本丸御門と天守閣

この本丸御門は慶長11年(1606年)に完成したもので、松前城で現存する唯一の門。
重要文化財に指定されている。
松前

天守閣の石垣には、戊辰戦争時の砲弾跡が今も残っていた!!
今も残る砲弾の跡が生々しい
松前
松前


松前城の天守閣は「松前城資料館」になっていて、ミニ資料館って感じだった。

DSC_0392.jpg


おもに松前の歴史についての展示だったが、戊辰戦争関係では副長・総裁・人見さんの写真が並んで飾ってあるのがちょっと嬉しかった~
(係りの方に聞いたら写真撮影はOKでした)

DSCN0444_20130419135307.jpg

この3人のラインナップは新鮮だった

そして、松前城の古写真も展示されていた。


天守閣から見る法華寺(赤い屋根と墓地が見える)
松前

本丸御門近くには、旧本丸御殿玄関が現存していた。
松前

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箱館の旅~松前の旅 3

いよいよ松前城(福山城)に入る!!

まずは、橋を渡って馬坂を上った!

松前

dscn0440-22.jpg


松前
umasakhasi.jpg


松前


松前城(福山城)は階段のような作りで、山の上から階段状に本丸、二の丸、その下に三の丸という作りで、三の丸のあたりに7つの砲台があったそうだ。

馬坂を上ったところ(三の丸付近)に、当時の松前城のジオラマと地図があった!
これを見ると門の位置がわかりやすい!!
松前

松前

松前城の門は「搦手升形」と言われる堅固な作りだったのだ。

まず外に馬坂門があり、それを突破しても搦手二の門搦手門とで升形状の門になっている。

mon3.jpg



升形状の門というのは、門が箱型に構成されていて、2つの門が設置されているのだ。
この箱、つまり門を2つを通過しないと本丸の敷地に入れないようになっている。
また、箱型になっているから、二つの門の間で敵を閉じ込めてはさみうちにもできるという構造なのだ。

拡大図
↓この図で、搦手二の門搦手門がその2つの門にあたる。

dscn0456-2.jpg

つまりは、
馬坂門を突破し、

搦手二の門を突破し、

さらに搦手門を突破し

やっと本丸へは入っていける
ってことなのだ

すごいなぁ~
突破しても、また門があり、そこを突破してもまた門があるんだもんぁ


松前城攻撃では、門に絡んだ有名なエピソードがありますな
松前軍が、門を開いては砲撃しすぐに閉じ、また開いては砲撃するというのを繰り返して、旧幕府軍が苦戦したと…。
そこで、城門を開くタイミングでいっせいに銃撃して突破したという。

この攻防は搦め手の門といわれているが、
(実際にその地に立ってみると実感できるのだが)
この構造からすると、いちばん外側の馬坂門での攻防だったような気がする。

どちらにせよ、こういう構造だったから、門をすべて突破して本丸に向かうには、かなり苦戦をしいられただろうなぁ…

門の突破に苦戦している時、副長の寺町からの奇襲攻撃が行われて、松前兵は総崩れとなるわけだが、その寺町へは松前城探索の後でじっくりと回った。

まずは松前城内へ、いざ!!!!

馬坂門跡
松前
松前


搦手二の門跡
松前

現在復元されているのは、搦手二の門だけ
松前


搦手門跡
松前







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箱館の旅~松前の旅 2

着いたあああ~\(^o^)/

松城」というバス停で下車
松前
なんかものすご海沿いのバス停なんすけどぉ…
海沿いっていうより、真下が海って感じ
これ、真冬に海が荒れたら、もろに波しぶきがかかるんじゃないかぁ

そういえばワタシの通っていた新潟の中学は、グランドの真下がすぐ砂浜っていうすごい立地だった!
当時は、放課後にテトラポットでカニ取りなんかして遊んでいたっけなぁ…
冬の日本海はものすごく荒れるので、グランドまで波しぶきがかかるのは当たり前で、
ひどい時は授業中に「パシャっ」って音がして、見ると窓に波しぶきが当たっていたのだった…

「また話がそれたわ、話をもとに戻しましょう」(by ヘド姐さん)


このバス停を降りてまっすぐ松前城には向かわず、道を曲がって法華寺をめざして歩いていたら、
「おお~い!おお~い!」
とどこからかワタシを呼ぶ声が…
松前に知り合いはいないはずなんだが(^_^;)
声のした方を振り返ると、漁師風のお兄さんが必死でこっちに叫んでいた。
「そっちじゃないそっちじゃない、城はこっちさ~」
どうもそのお兄さんは、ワタシが道を間違えているんだと思って、必死に教えてくれていたらしい。
バス停を降りた観光客は、城を目指すんでしょうな、普通は…
「法華寺に行ってから松前城へ行きます」
と話したら、松前城への地元の人しか通らない近道を教えてくださった!
なんか、人情が熱いっていうか、見知らぬ者にもこんな風に声をかけけくれるんだなぁ…
ホントに感激しました



さあ、いよいよ法華寺だ!!

法華寺へはかなり急な階段を上って行かねばならなかった。
松前
登りきったところから海を見た
松前


山門をくぐる
dscn0422.jpg

法華寺本堂
松前

松前




法華寺の墓地には松前攻撃で戦死した旧幕府軍のお墓がいくつかあった。
確認できたのは、会津藩士だった赤羽音吉さんの墓碑と、
「徳川 陸軍隊、士官隊」とあり戒名のみが刻まれている墓碑。

赤羽さんの墓碑の裏には、
「慶應四戊辰年十一月五日 會津臣 赤羽音吉」
とあった。

静かに手を合わせて「どうか安らかに」とご冥府をお祈りさせていただいた。
そして、周囲のお墓のみなさんにも、「お邪魔してすみません、副長の足跡をたどっているので」と…。


さて

1868年11月5日、松前城下に入った副長は、ここに大砲を設置してここから松前城へ砲撃を開始!!

まさにこのあたりに大砲を置いたのか!
有名な松前城の古写真と近い角度から写真を撮ってみた

松前

松前攻撃の総督である副長は、この辺りから戦況をうかがい、指示を出していたのかもしれないと思うと、胸に迫るものがあった
同じ場所に今自分がたっているのだ…
城下の町並みは様変わりしているが、自然の織りなす風景は変わっていないはずだ。
今目にしている山や海、それは副長の目にも入っていたに違いない

そして、この距離感も変わらないはずだ…
ここから眺める松前城、この距離感はここに立ってこそ実感できるものだった!

う~ん凄い!
ここからだと必ず命中しそうなほどの視界の良さだ!!

こういう場所ってどうやってきめるんだろうか
事前にどれくらいの情報を得ているものなのか…
先方隊が偵察隊のような役目を果たして周辺の様子を副長に知らせてあったのだろう…

指揮官には、情報収集と素早い読みとそして即効の決断が必須だと思うのだが、
まさに、副長の指揮官としての有能ぶりがわかるなぁ


海からは回天が艦砲射撃を開始!!

さらに松前城へと攻め込むのであった!!

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箱館の旅~松前の旅 1

松前へのひとり旅
この旅のキーワードは「辿たどる」

松前城下だけが目的地ではない。
副長が進軍していった道をたどり、その距離感、風景、空気を感じながら自分も進軍していきたかった。

そして松前城下めぐり

函館市内と共にどうしても行ってみたかった場所、それが松前なのだ。
蝦夷地での最初の“軍師 土方歳三”の戦いぶりを知ることができる場所。


【JR函館駅からスーパー白鳥に乗って木古内駅へ行き、
そこから路線バスに乗り換えて松城前で下車】

↓自分用に作って持ち歩いていたスケジュール表
松前スケpg

函館駅を出発して、 松山街道をひた走る旅、

七重浜を通り、矢不来、茂辺地といった地名を通るたびにテンションが上がる

列車は、土方隊が松前攻撃のために進軍した道をたどるように走る!!
七重浜→有川→富川→矢不来→茂辺地→木古内 というルートだ!!

『中島登覚え書』に
「十月廿八日土方公等七百余ノ兵ヲ引テ松前方面エ向フ。
 有川村ニ一泊ス。同廿九日同所出立茂辺地ニ一泊、同所出立木古内ニ宿陣。」

とあって、
五稜郭を出て、有川~(富川)~(矢不来)~茂辺地~木古内へと進軍していったことがわかる。

行きの電車は、まさに松前への進軍電車!!


でも、

帰りの電車はこの逆ルートを行くわけで、新政府軍の進軍によって旧幕府軍が撤退していったルートとそのまま重なるんだよなぁ

富川は、新政府軍が本陣を構えたところ

そして、

矢不来(やふらい)は、旧幕府軍と新政府軍との激戦「矢不来の戦い」の戦地だったところだ。
1869年4月29日に矢不来では、新政府軍を相手に大鳥さんも馬上で奮戦していたが、大軍相手でしかも海からの艦砲射撃が激しく、旧幕府側は敗走。
指揮をとっていた額兵隊隊長の星恂太郎さんは、敗走の中で自刃を覚悟。
しかし味方に励まされて富川まで撤退したといわれている。
やはり軍艦砲撃の威力はすさまじいなぁ…

茂辺地は、その矢不来の戦いがあった時に前線が置かれた場所だ。

浅い知識ではあるが、今まで本や資料で地名だけを読んでいたところを実際に今自分が通っていると思うと、それだけで胸がいっぱいになった…
ひとり、電車の中で、窓にヤモリのように張り付きっぱなしで、
ひたすら窓の外を食いいるように見ているオバサンだった(^_^;)


富川を過ぎたあたりで、電車の窓から見る函館山
いつも函館市内から見る角度よりかなり裏手から見た函館山だ!
新政府軍が登ってきたのはこんなところからだろうか!?
松前



木古内駅に着き、電車からバスに乗り換えて、
ここからは1時間半の路線バスの旅
松前

松前

今回は乗り換えのため数分しかいられなかったが、いつか木古内の戦場跡もめぐってみたいなぁ…
木古内の戦いもまた、大激戦地であった戦場。
明治2年4月12~13日の第一次木古内戦、4月20日の第二次木古内戦と2度に渡っての激戦地。
大鳥さんが軍を率いて奮戦。
第一次では新政府軍を撃退しているのだが、なんせ第二次戦は敵は兵力を増強させて来たし、海からの艦砲射撃も激しく…
軍艦の攻撃力はとにかく凄いのだ…
そして、新政府軍の兵力は無尽蔵だもんなぁ…
副長の「我兵に限り有り、官軍に限り無し」という言葉を思い出す。

伊庭八郎さんが重傷を負ったのもここだった。

この木古内戦(4/12~13、4/20)、矢不来戦(4/29)
の敗走を受けて、副長に二股口からの退却命令が下ったのだった。



路線バスから見る風景もまた印象的だった…

特急、バスと乗り継いできてここまではずっと海岸沿いを走っていたので、目に映る風景は海だったのだが、知内(しりうち)という地名を過ぎたあたりから風景は一変!!
山また山の田園風景に変わったのだ。

松前

これは松山街道が途中の知内あたりで山越えの道に変わるからだ。
それまでは海岸線に沿って道は続いていたのだが、一気に山の方へと入って行くのだ。
松前

ワタシが電車やバスの中から初秋のポカポカ陽気の中で見る風景とは違って、松前進軍当時は真冬。
初めて体験する蝦夷地の冬。極寒の中の進軍。
海沿いの街道を行く時は、海は荒れていただろうし、吹雪だったかもしれない
そして山道はさらに険しく、凍えながらの峠越え進軍。
副長はみんなに檄を飛ばしながら進んで行ったんだろうか!?
先陣隊や後方隊を含めて700人以上の大軍を率いていたのだから、
隊長というより総督だよなぁ…

1868年10月26日に五稜郭入城して、その2日後の28日にはもう松前目指して出陣している副長!
蝦夷地制平定のためには、まさに不眠不休の強行軍だった。


この知内は、松前藩領の入り口ともいえる場所だったらしい。
11月1日に、小舟に乗って密かに海側から回ってきた松前兵が土方隊に夜襲をかけたのが、知内なのだ。

『中島登覚え書』に
「霜月朔日知内村に宿陣ス。
此夜半頃敵兵不意ニ夜打ヲ仕掛ケ候処、敵兵敗テ逃去。」

と書かれている。

松前

松前


ひたすら田園風景の中をバスは走って行った



そして

ずっと山道が続いていたが、福島 という地名を過ぎた途端、突然また目の前が開けて、海がいっぱいに広がった!!

松前

いくつかの戦いを経ながら福島に達した土方隊。
福島の法界寺というお寺には松前兵の本陣があったとされている。

福島」という地名を聞いて、会津藩士たちは故郷を思い出したんじゃないかなぁ

松前


ここから松前に向けて出陣したのが11月4日

いよいよ松前に着陣だぁ~~~

松前②へ続く

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ステカクの写真、キタ~

今朝、たっち~とユダさまのトークが早く読みたくてTVナビを買いにコンビニへ行った
で、行ったついでにTV雑誌をパラパラしていたら、

ステカクのコウジ写真が出ていたあああ!!

出ていたのは月間ザハイビジョン 12月号

表紙からしてミタニンなので、もしやと思って開いたら・・・
ステカナの相関図の次に、なんとステカク写真も!!!

ステカク主要キャスト5人の中にステカクコウジもあったのだ!!

きゃああ~
初めて見るこの写真~

※以下ネタばれですのでご注意を





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